「美味しんぼ」の主題は、けっしてグルメでは なく、「もてなしの心」のようである。(と、ま たまた漫画の話で恐縮に思っております。) 「美味しんぼ」で「もてなしの心」を扱った作 品は数多くあるが、その中でも深く印象に残っ ているものといえば、「もてなしの心」そのも のが題名となっている、米の一粒一粒を選んで ご飯を炊くという話(コミックス5巻8話)である。 また、四万十川の鮎のてんぷらに顔面一杯の涙 を浮かべた京極さんの話(「鮎のふるさと」コミ ックス8巻4話)もけっして忘れることができな い。(と、まるで喫茶店でコミックスを調べたか のようである。) 最近でも、平尾さんというデザイナを海原雄山 がおむすびと粕づけでもてなすという話があっ た。料理の技術では海原雄山に優るとも劣らな い山岡ではあるが、「もてなしの心」という点 においては、海原雄山に大きく水をあけられて しまっているようである。しかし、海原雄山の ような大物を父親に持った山岡という男を幸せ 者だと思う読者は多いに違いない。 なぜ、このようなことを書いているのかといえ ば、ものを作るということは、最終的には、そ れを使うものを「もてなす」ことだということ が、恥ずかしながら、最近になってやっとわか ってきたような気がするからである。 そうなのである。分散処理がどうのこうのとい ったって、オブジェクト指向がどうのこうのと いったって、マルチ・メディアがどうのこうの といったって、ビジュアル・プログラミングが どうのこうのといったって、ハイパーテキスト がどうのこうのといったって、DTPがどうのこ うのといったって、CAIがどうのこうのといっ たって、CASEがどうのこうのといったって、 論理プログラミングがどうのこうのといったっ て、エキスパート・システムがどうのこうのと いったって、「もてなしの心」がなければ、そ んなものは「カスや」。 ソフトウェアにおける「もてなしの心」とは、 いうまでもなく、使う者の身になってデザイン され、細部にまで神経のゆきとどいたユーザ・ インターフェースのことである。そんなことは 百も承知だといわれるかも知れないが、「もて なしの心」を教え、「もてなしの心」を持った プログラマを育てることが、いかに困難なこと であるかということを認識している人は極めて 少ない。 例えば、ソーティングのアルゴリズムを教え、 ソーティングのプログラムの書けるプログラマ を育てることはたやすい。言語理論を教え、コ ンパイラを作れるプログラマを育てることはた やすい。それに比べて、「もてなしの心」を教 えることには、雲を掴むような感がある。そも そも、「もてなしの心」とは何なのであろうか。 ここで、興味深い話がある。二人の男がいる。 一人は真面目一徹で女気など全くないような男 で、その代わり、どんな巨大なプログラムでも、 ガリガリと力任せに書いてしまう。もう一人は、 いつもこぎれいなセンスのある服を身にまとい、 ふらりと京都北山あたりのしゃれた店に女連れ で現れたりする。 さて、この二人が、ウィンドウ・システムを使 ってビジュアルなユーザ・インターフェースを 作ったとき、どちらが使いやすいものを作った かといえば、もちろん、ふらりと京都北山あた りのしゃれた店に女連れで現れたりする方であ った。 ユーザをもてなす心と、女性(異性)をもてなす 心は違うかもしれないが、常に相手が何を欲し ているか、何を不便に思っているかを細やかな 気持ちで考えてあげるという点において、共通 点が多くあると思われる。これはというときに、 さりげなくプレゼントを渡すことと、これはと いうときに、さりげなくメッセージを出力し、 さりげなくメニューを出してあげることは、人 間の精神活動として似ているのではないだろう か。要するに、女を口説くのには相応の「まめ さ」が必要であり、ユーザ・インターフェース を作るのためにも、同じようにまめでなくては いけないのである。 しかし、そのような「まめさ」を教えるという ことは、いったい可能なことなのであろうか。 教えることなど不可能な、人間が持って生まれ た才能なのではないだろうか。(ああ、才能とい うものに嫉妬してしまう。)へたくそなものには、 いくら教えても何の効果もないのではないだろ うか。(うそだと思うなら、インターフェースで 「もてなしの心」の特集をやってみろ、といい たい。) さて、そのような「もてなしの心」という点か ら見ると、「ワークステーション」という名の 計算機ほど、客を馬鹿にした計算機はないので はないかと思われる。あのような巨大で細かい ビットマップ・ディスプレイに向かって一日中 仕事をしていれば、必ず目が悪くなる。いくら 静かになったとはいえ、ディスクの音を一日聞 いていれば、必ず難聴になる。僕には、どう考 えても、ワークステーションという名の計算機 は、一日中使えるような計算機には思えないの である。そのくせ、あのでかい図体が個人用の 机の上を占領しているから、仕事はすべてワー クステーションでやらなくてはならなくなる。 一言でいえば、現在のUNIXワークステーション は、ハードウェア技術とソフトウェア技術の妥 協の産物でしかないと思う。 確かに一人にワークステーションが一台の時代 となった。それが豊かさというものかもしれな いが、もう少し使う人の身になって計算機とい うものを考えてみたいと思う今日この頃である。 また、もてなしの心は、どうすれば学べるのか、 どうすれば教えられるのか、それこそが、コン ピュータ・サイエンスの最後の課題であると思 う。 M生